悟り(覚知)という解釈
もう一つ書いておきます(@_@)
すぐに済みます(^_^;)
覚知とは生命について
宇宙についての解釈と似ています。
というか、ほぼ同じ認識なのです。
生命には、始まりもなく終わりもありませんから
つまり
際限はなく
無限で
終わりはありません。
覚知した状態というのは
謙虚に学び、常に心を磨き続ける
ということです。
都市伝説や陰謀論を講じる人に
多く見受けられますが
「もう全部わかった。俺は知っている。
これはこういうことだから。」
至極愚かな傲慢の極みです。
このブログを見ていただいてる人は
大丈夫だとは思いますが
このような傲慢な外的要因には
くれぐれも注意してくださいm(__)m
前回記事で書きましたが
これを仏法では二乗と言って
悟ったつもりになり
人々を見下す傲慢な命の状態(境涯)として
喝破しています。
悟りの一部を獲得しているだけの境涯です。
ですので
常に私自身も氣を付けています。
十界のそれぞれの境涯にそれぞれの境涯が
備わっています。(十界互具)
つまり、この二乗の境涯も
私含め全員に等しく備わっているという解釈です。
ちなみに日蓮大聖人は
この悟りに関わる部分でこのように仰せられました。
「迷っている境涯の時を衆生といい、悟っている時
を仏というのです。
例えば、曇った鏡も磨けば玉のように見えるのと
同じです。
この瞬間もあなたの状態が無知で迷っている心で
あるならば、それは磨いていない鏡です。
この心を磨いていくなら、必ず宇宙根本の法その
モノである明るい鏡となるのです。
深く信心を起こして、朝昼夕晩に(常に)怠らず
に磨きなさい。
どのようにして磨いていくのか?
ただ南無妙法蓮華経と唱えていくことを、これを
磨くと言うのです。」
とてもユーモアな例え方と思いませんか?(´///ω///`)
詩人ですよね(๑º ロ º๑)
とにかく、このように大聖人でさえも
常に自分に向き合い、心を磨いておられたのです。
これを理解し行動する
境涯の時を仏というのです。
この3次元世界における
魂の課題は修行です。
この魂の修行を
皆さんと共々に楽しく歩んでいければ最高です(*^^)v
まいける(´ฅ•ω•ฅ`)